高校生のころ「高校を卒業したら働く」と言ったら、「高卒では後で大変になるから、大学に行け」と親から真剣に言われました。今から思えば親は本当に偉いと思います。
当時は「大学に行け」と言われて驚きました。何故なら親戚のいとこ達はみんな地元の工場とか会社に高卒で働いていたからです。
実家は質素、つまり貧乏で「かなりがんばって稼がないと、食べていけないぞ、路頭に迷うぞ」という現実を小さい頃からダイレクトに肌身で感じていました。
共働きで親が学費を貯めてくれたおかげで、大学に行くことになり「取得が難しくて、ホルダーの人数が少なく需要がある資格が取れる」「仕事に使える技術を学べる」という、稼ぐための基準で理系の学部の大学を選びました。
「稼ぐため」以外の選択肢は、当時はまったく思い浮かびませんでした。大学進学に際して親からの具体的なアドバイスはなかったです。たぶんわからなかったんだろうと思います。
いかに生産的であるか、役に立ちそうか、稼ぐためのルールに乗っかって大学に行って、仕事もやってきました。
非生産的でも興味があればやってみる
役に立つ=稼げる、お金になるというルールは大切です。
おかげでなんとか30代後半まで生活に困ることなく、家族を養えて貯金もそこそこ増えました。
だけど役に立つ(と自分が判断した)生産的なものだけやっていると、どうしても窮屈になります。
興味はあるけど自分にとって生産的でないものは、イラスト、文章、語学、ゲームです。
自分にとって生産的でないというのは、生活できるレベルの稼ぎにするには自分の気構え(根性?)や才能が足りない、という感じです。
子どもの頃はストリートファイターⅡとか虫取りとか工作とか、役に立たないことのほうが楽しかったです。
大人になって小銭を稼いだ今だから稼ぐという意味で役に立たないかもしれない、非生産的なことでも、自分が興味があるならやってみたいと思うようになりました。
失敗したって途中で止めたって何の役に立たなくても、興味があるならやってみればいいじゃない、そんな気持ちです。